xxx

  • x
  • xx
  • xx
  • xxx
  • xxx

xxxx

2013年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

ウェブページ

無料ブログはココログ

最近のトラックバック

« 「みんな仲良く」の日本人「俺が俺が」の韓国人 | トップページ | 小沢氏団体、外貨預金で損失2千万円 政治資金を運用 規正法抵触も »

2011-11-30

力道山の真実

力道山の真実(上)力道山の妻、田中敬子



今日ボクが見た風景

「オレは死にたくない」が最期の言葉


 昭和38(1963)年12月15日にプロレスラー、力道山が暴漢に刺され急死してから約半世紀になる。空手チョップで外国人レスラーをなぎ倒し、敗戦で打ちのめされた日本人に元気をくれた希代のヒーロー。その「素顔」を妻が明かす。(文・喜多由浩)



 --「死の真相」には50年近くたった今もナゾがつきまとう。病室で医者に止められていた「サイダーを飲んだため」という噂も伝えられましたね

 田中 それは絶対にありません。私や看護師が昼夜交代で付き添っていましたし、主人(力道山)は実は神経質な人でお医者さんのいうことを、きちんと守っていましたから。「過度の飲酒や薬漬けで体がボロボロになっていた」というのもウソです。ホントはお酒が弱い方だったし、薬も結婚してから飲んでいたのは栄養剤だけです。

 ただ、長年のレスラー生活で体を酷使したため、内臓が弱っていたことは知らされました。先生(医師)は「普通の人ならとても耐えられませんよ」って。手術時に常人の2倍の量の麻酔が使われたことや輸血用の血液が足らなかったことも聞きました。“医療ミス”という人もいましたが、今となっては真相も分かりません。

 --入院中、ご主人の様子はどうでしたか

 田中 ずっと元気で「お正月はどうする?」なんて話をしていたのですが、再手術が決まりストレッチャーに乗せられて手術室に入る直前、「オレは死にたくないよ。いくらお金がかかってもいいから最善の治療をするように先生にお願いしてくれ」と不安そうにしていたのが忘れられません。それが最期の言葉となってしまいました。


--レスラー、興行主、事業家と何役もこなしてきたご主人が突然亡くなった。大変だったでしょう

 田中 結婚してまだ約半年。当時、私は22歳で連れ子の3人と、おなかには(実子の)長女がいました。私が社長となり、主人の事業を引き継ぐことになりましたが、「手形」すら知らない小娘に何ができるというのでしょうか。結局、周りにいた人たちにいいようにされ、残ったのは(自宅があった)リキ・アパートだけ。相続税は当時のお金で約1億円でした。その後、アパートも処分せざるを得なくなり、小さな部屋に引っ越しました。まだ幼かった娘も子供心に「(生活が)大変なんだ」と感じていたでしょうね。

 --お葬式は(力道山の出身地の)北朝鮮でも、行われたそうですね

 田中 亡くなってから約1年後に、主人の(北朝鮮の)兄という人から、葬儀の写真と手紙が知人を通じて送られてきました。写真は、背広姿の主人の遺影と祭壇を親族らしき人たちが取り囲んでおり、元レスラーの大同山(北朝鮮の金正日総書記の夫人、故高英姫氏の父親で、後継者に決まった金正恩氏の祖父)も写っていました。

 手紙には「遺産を北朝鮮へ送ってほしい」という趣旨のことが書かれていました。莫大(ばくだい)な遺産が残っていると思われていたんでしょうね(苦笑)。実際には借金ばかりでしたが…。


 --ご主人は、生まれ故郷の朝鮮半島に強い思いがあったのですか

 田中 そう思いますね。婚約が決まり、「朝鮮の出身だ」と初めて打ち明けられたときは主人の涙を見ました。泣いたのを見たのは私がプロポーズを承諾したときと2回だけです。「誰にも言うなよ」と口止めされ、極秘裏に国交樹立前の韓国に行ったこともありました。日本の政治家に頼まれて国交正常化交渉の“地ならし”のような仕事もやったようです。




【プロフィル】田中敬子

 昭和16年、横浜市出身。70歳。日本航空の客室乗務員として勤務。38年6月、力道山と結婚、1女をもうける。著書に『夫・力道山の慟哭』。

 力道山は大正13年、朝鮮生まれ。大相撲からプロレスへ転身。昭和28年、日本プロレス協会を設立し、空手チョップを武器に「プロレスブーム」を巻き起こす。38年、暴漢に刺された傷がもとで死亡。享年39。


http://sankei.jp.msn.com/sports/news/111129/mrt11112903090000-n1.htm







時代を先取りしたビジネスマン


 --ご主人は昭和を代表するヒーローの一人。人気はすごかったでしょう

 田中 そりゃあもう(苦笑)。毎週のように週刊誌に載るし、いつでも取材の記者が待ち構えている。プロレス人気もすさまじく、1回興行をすると、当時のお金で200万円ぐらい入ったとか。そのお金を段ボールにギュウギュウ詰め込んでいたそうです。

 スケジュールは、まさに分刻み。プロレスだけでなく、いろんな事業をやっていましたから、毎日、会社の人を自宅に呼んで細かく指示を出していました。夜は夜で、外国人レスラーを食事に連れてって“接待”しなければならない。金庫には彼らのギャラとして支払う「闇ドル」がいっぱい詰まっていました。

 --交友関係も幅広い

 田中 芸能界なら、美空ひばりさん、石原裕次郎さん、田宮二郎さん、伴淳三郎さん。スポーツ界は、大相撲時代の弟弟子、初代の横綱・若乃花関、プロ野球の金田正一さん、張本勲さん…。政界や経済界との付き合いもたくさんありましたね。だから夜の宴席もひっきりなし。主人は「ホントは自宅でゆっくりしたいんだがな…」とこぼしていましたけど。


 --女性関係も派手


田中 主人は「オレが声をかければ飛んでくるオンナは何人もいる」なんて豪語していましたが、高名な女優さんを含め、いろんなお付き合いがあったようですね。北朝鮮に許嫁(いいなずけ)や子供がいたという話も聞きました。でも、私と結婚するときに女性関係はキレイさっぱり清算してくれました。というのも、主人はある方から忠告されたそうです。「ちゃんとした方と家庭を持て。ビジネスをやるにも銀行は家庭もない男にお金は貸してくれないぞ」って。


 --そのビジネスの才覚もすごかった


 田中 主人は全て一人でやっていたんです。独学で英語を覚え、外国人レスラーとの交渉も全部自分でやる。プロレス以外の事業でも「時代を先取り」していました。ボウリング、ゴルフ、スポーツジム、サウナ、マンション、ナイトクラブ…。当時、プロレスラーは生命保険に入れなかったので、自ら保険業に乗り出してしまったぐらい。すごいアイデアマンであり事業家でした。税金の額までちゃんと見越して着実なビジネスを展開していましたからね。


 --なぜ、そこまで?


 田中 ビジネスで成功し、もっとビッグな男になりたい、「オレはまだまだ発展途上だ」という思いが強かったようです。私には、「3年、我慢してくれ。誰にも文句を言わせない男になってみせるから」と話していました。国境も過去も関係なく、どこでも「ヒーローとしての役割」を果たせるようになりたいという思いでしょうか。


--その思いは、やはり朝鮮半島や日本の問題に向けられていたのですか

 田中 朝鮮半島の分断には心を痛めていたでしょうね。極秘裏に訪韓したとき、主人は38度線の近くに立ち、酷寒の中、上半身裸になって、北朝鮮にいるお母さんや兄さんに向かって絶叫し、周りを驚かせたそうです。新潟で、北朝鮮から来た船の中でひそかにお兄さんと再会したという話も聞きました。

 きっと、もっとビッグな存在になって朝鮮半島や日本の関係改善の“架け橋”になりたい、という思いが強かったと思います。主人の遺志はいま、直弟子だったアントニオ猪木さんが継いでくれています。(喜多由浩)



今日ボクが見た風景



« 「みんな仲良く」の日本人「俺が俺が」の韓国人 | トップページ | 小沢氏団体、外貨預金で損失2千万円 政治資金を運用 規正法抵触も »